現状を疑う

スマートフォン音声認識の仕組みを利用して口述でブログを書いています。もちろん、一発取りではなく事後の推敲、編集は必須です。世の中ではもう普通のことなのかもしれないですが、私にとってはとても便利なことだと思っています。

 

米国連邦議会横浜市議会

横浜市で、統合型リゾート施設誘致の賛否を問うための住民投票条例案が否決されました。市民団体が法定数の3倍を上回る約19万3千人分の署名を集めて直接請求した事案に対して、議会は「軽々に市民に判断を委ねるような問題ではない」と言い切ってさらっと否決しちゃいました。

選民意識の表れというのか時代錯誤というのか、市民、住民に「軽々な判断」しかできないような情報開示しか行わなかった自らを恥じることもなく、住民投票実施に「意義を見いだしがたい」と繰り返した林市長の後ろ向きな意見にも後押しされて、淡々と否決したみたいです。

一方で、署名を主導した市民団体の反応も「残念無念。しかしこの議論を通し、どちらに大義があり、正義があったかは客観的にはっきりしている」と既視感だけのワンパターンでした。住民が不安に思ってるっていう素直な気持ちを自分たちの活動の餌にしただけで、組織のプレゼンスを高めて次の選挙に向けて対立組織にダメージを与えることができればそれでいい、と言う底の浅い意図しか感じとれません。

それは、社会から取り残されてしまった不満や怒りを持て余していた米国の白人層の一部を煽って自分の政治活動に利用しようとした現職大統領の手口と同じです。今の野党が全く世の中から支持されないのは、普通の人はみんな「野党のやることはアメリカの現職大統領と同じだ」と思っていて、「我々はそんなに愚かじゃないぞ」と、警戒したり、嫌っていることの現れだと思います。
www.tokyo-np.co.jp

 

 既存の政治勢力に注意 

米国の例は、暴力に訴えてしまったために吹っ飛んでしまいましたが、現行制度に沿った手続き自体に異議を唱えようとしたことは悪なのかという論点は残ります。定められた手続きの中でしか反論することができないっていう縛りに自ら捕らわれないといけないのでしょうか。横浜の話にしても既存の地方自治の手続きに沿って、自分たちの存在意義を示したい市民団体に自己満足の材料として消費されて、結局ダメだったけどしょうがない、という話にまとめられて終わり、でいいのかどうか。

私たちが行うべきは、こうした現行の政治、自治の枠組みそのものがちゃんと我々のニーズを受け止めてきちんと機能しているのだろうか、不都合な現実を改善するための役に立っているのだろうか、という点に着目して監視することです。それはメディアを通じてだったり個人的なコミュニケーションだったり、方法は色々あると思いますけれども、現行の制度に抱いた違和感をきちんと表明して広く伝えなければいけない、思いを共通する人と連帯をしていかなければいけない、そういうことだと思います。

加えて、今回の連邦議会横浜市のケースのように、普通の人が抱くいた素朴な違和感の表明を既存の枠組みの中にいるプレイヤーに利用、消費されてしまって、手続きに則って否定されて終了してしまうだけではダメなんだ。やはり人任せにしないで、自分たちが主体的に関われる違う方法を考えなければいけないんだ、既存の枠組み自体を評価して、それでいいのか、問題点があるのか、どうすればいいのか、という話をすべきだと思います。

具体的にどうすればいいかはまだ分かりませんが、その方法を考えている人は世の中にたくさんいると思うので、ひとまずそんな人たちと連帯をすべきなのでしょう。自分たちの意見を既存の枠組みのプレーヤーに消費されないように注意しながら、既存の政治や自治の枠組み自体に圧をかけていく、そういう進め方をしていかないといけないのだと思いました。

やっぱり「教育」ってすごいな

教育ってすごい

香港で、政府に反対したと看做された政治家たちが50何人も逮捕されました。予想はできてたことなんですけど、ここまで正々堂々と「体制に逆らい、体制の変容を求める活動は反政府活動だ」と言い切ってしまう神経に驚きました。

我々の感覚だと普通の政治活動なんですけど、かの国の一部となった香港ではすでに「反政府」活動になっていて(というか事後にそう扱われて)、それが一般的な考え方として支持されている状況に恐怖すら覚えます。第2次大戦の時に、連合国が我が国に対して抱いた恐怖、アンフェアな思いというのはこのようなものだったのかな、と想像もできます。

かの国の外交部報道局長は「香港では法治が行われている」と言っていましたが、彼等にとっての法治は、法によって政権も縛られるという我々の「法治」ではなく、法によって市民を管理、統治するという意味合いなのだろうと想像しました。

さて、そんな「法治」が当たり前の社会は、まさに教育の成果の賜物です。現体制の維持が至上であって、その改変を企てることや異議を唱えることは、国内の人々はもちろんのこと外国の勢力であっても罰すべき対象になるんだ、悪いものなのだという思想は、そのことを是とする教育を地道に継続してきたことにより整えられた環境があって初めて、あのように正々堂々と臆面もなく言えるのでしょうし、そうした環境の出来栄えに自信を持っていることの表れだとも思います。

日本においては、重厚長大産業や規模の利益、分業・機械化を至上とする産業構造が未来永劫に続くんだという想定(いや、何も考えず)のもとに、与えられた役割分担に従順な人間を大量生産する教育が何十年も行われてきました。その結果、自分たちで新しいものを生み出すことのできない、与えられた環境の下で想定された反応だけしかできない人たちの群れが生み出されて、その結果、日本の相対的劣化がここまで進んでしまったという現在があります。ある意味、これも一つの教育の成果(というより結果)ではないかと思い、改めて「すごいなあ教育は」と思いました。

jp.reuters.com

 

教育は戦略

そんな事実を前にして思うことは、やっぱり教育を考えるってことは、30年先50年先の未来を考えて、将来にわたってどんな人材が必要とされるか、という議論をしないとダメなんだなってのは当然のこととして、現時点において将来求められる人材を想定して教育目標をセットするなんてことも、危なっかしくて全然ダメでしょうってこともよくわかりました。

やはり教育というのは、その時々の近視眼的な小手先の話やだれも責任を取らない将来の見通しみたいなどうしようもない基準に基づくのではなくって、ファンダメンタルな部分でどんなハートを持っている人間にこの国家の未来を担わせたいかということを考えてその仕様を定めないといけない。折々の外部環境の変化によってあっさり使い物にならなくなっったり、力なく座り込んで全く反応のできないような人材を大量生産しても全然意味が無い。状況が変わっても、どんな困難に見舞われても、そうした環境を当然のごとく受けとめて柔軟に粘り強く対応できるような、人間としての根っこのしっかりした地力のある人材が必要なんじゃないかと思います。

日本はそこが足りなかった。中国は逆に、現在の状況を長く将来にわたって継続できる環境を維持するための人材育成をしていた。そこに戦略っていうか将来ビジョンの有無の違いを見た気がします。

その点においては全く感服せざるを得ないのですが、普通の政治家を「反政府活動家」として平気で逮捕して、何の臆面もなく公表し「法の支配だ」て言い切ってっしまう香港の在りようは、やはりすごいなと思います。物質的、生物的には同じ人間なんだけれども頭の中身は全く違うんだ、知的生命体としては別種の存在なんだな、と素朴に思います。

そうした意味において、教育の効果や影響の凄まじさを感じます。おなじ人間として共感できる部分が殆どなんでしょうが、多少歩み寄ることはできても決して理解することができない部分が残るんだろうなと思います。サッチャーと鄧小平の「法の支配」に関するエピソードは歴史的事実としては知ってましたけれども、今回実感することになりました。とても怖い話だと改めて思います。

www.jiji.com

 

見捨てられた国民の一人として

年の初めに思い立った。これから、口述でブログを作ってみよう。

日頃から、スマホ音声認識の精度がとってもよくなっていると感じていたので、実行に移すことにした。もちろん下書きレベルでのことで、最終的にはキーボードで推敲して体裁を整えている。

 

国民を見捨てる政府

最初のテーマは、やっぱり気になる「新型コロナウィルス感染症」への対応を通じて見え隠れする政府の姿勢について。

すでに政府は国民を見捨てていますね。自分たちの政権、権力を支え維持してくれている人達の利益だけを一生懸命守っています。さらに感じ悪いのが、それがどうした、当たり前だろう、って開き直りかねない態度をありありと感じることです。

公衆衛生は、治安、国防と並んで国民の生存空間を確保するために必須となる国家の活動で、政治や経済、文化や教育などとの間で優先劣後を論じるべき分野ではなく、上位概念というか、レイヤーが異なるんだと思います。今まさに家が燃えているのに、今晩のおかずはどうしよう、って考えてる状況に近いものがあるんじゃないでしょうか。

そんな大事な政策に関して「国民は自己の責任で災いを生き抜け」って太平洋戦争末期の旧軍が言ってそうな流れになっています。結局、政府は全く変わっていなかった。政府は国民を助けない、軍は国民を守らない。70年前の先輩方が命と引き換えに得た教訓は、きれいさっぱり忘れ去られてしまっています。

彼らは、もう自らが寄って立つところの体制の維持にしか関心が向いておらず、国民なんて金のかかる厄介な管理の対象くらいにしか思ってない。国民の安心安全、とか言ってるのはそう言わないと叩かれるからで、全く本気でないのは具体的な行動が伴っていないことからも明らかです。そういう意味で、お隣の共和国たちと大差ないな、っていう感じがします。

 

国民が生み出す「負圧」

こんな政府の在りようもたいがい勘弁してほしいんですけど、国民の側もそれに従順というのか、それが当たり前って言うのか、こうしろああしろ言ってくれ、どうすればいいのか言ってくれ、みたいに主体性が無いのが気持ち悪くてたまらないし、どんどんそんな感じが強まっていることを感じます。

飼育されたいのか、管理されたがってるのか、面倒くさいのか、考えるのが嫌なのか、そもそもそれができないのか。為政者が国民の管理コストを引き下げようとして制約やルールを強化するというのではなく、国民の側から生じる、教えてくれ、指図してくれ、促してくれ、という「負圧」の高まりを感じます。皆がそう考えるのを改めろ、という気はないですけど、頼むから「巻き込まないで」って思います。

そんな気持ちの悪い渦に巻き込まれないためには、今は何をすべきか、明日はどうあるべきかということをしっかり考えて、意見を言い、実際に行動するといった具体的な活動を繰り返すしかないと思います。ただし、野党に都合よく利用されないように気を付けないといけませんが、そっち向きの話は、日を改めて。

印象「印象 、日の出」

光が見えない

私は悩んでいた、深く深く。場所は上野、東京都美術館の展示室。モネの名画「印象、日の出」の前に折り重なる人垣の中である。

誰一人として知らぬ者のないこの名画を前にしてかれこれ30分近く、近くから遠くから力の限り眺め続けているのだが、その間、”これは!”と思える要素を何一つ見つけ出すことができないのだ。さていったいこの鼠色の絵のどこを、何をもって世界の人々は誉めそやし続けてきたのだろうか。まったく理解することも、感じ取ることも出来ないでいた。

私はモネに対して「光を描く画家」という勝手な先入観を持っていた。「草上の昼食」に描かれた陽だまりは目が眩むほどまぶしかったし、「かささぎ」の雪景色を包み込む冬の夕日は手の甲にほんのりとした温もりを感じさせてくれた。しかし、この絵からはそういう類のもを一切感じとることができない。くすんだ背景と荒く描かれた前景とが水面に揺らぐ陽の光で不格好に接合されている、そんな絵にしか見えなかったのだ。

確かに「印象派」の名の起源となった作品であることには違いない。しかし、美術品としての価値がそのような歴史的な意味だけにおいて語られるのだろうか。そんなことがあろうはずもなく、残念ながら私にはこの作品の良さに触れるためのレセプターの持ち合わせがないのだろう。そう思って、もう殆どあきらめかけていた。

東京都美術館|マルモッタン・モネ美術館所蔵 モネ展

 

お嬢さんありがとう

すぐ後ろから若い女性の声が聞こえた。絵の前を一巡りして、人垣の中で待っていた連れの母親に話しかける風である。「あのお日様すごいよ!一筆で『ぐりぐりっ』て描いてあるの」。すぐに絵画の前を流れる人の列の最後尾に並びなおし、もう一巡して確かめる。

その通りだった。
荒いタッチで一筆。朱の色はまるで「ひなげし」のように明るく、溶かずに混ぜられた白が輝きを放っている。その瞬間、画面に光が射した。闇に包まれていた風景に明るさを増した太陽が光を投げかけ始めた。たちまち画面が輝き始める。

更に不思議なことに気が付く。絵を眺める人々の中の幾人かが、何かを探すようにして背後を振り返っているのだ。それも決まって右肩越しに。きっと不意に画面に広がった光に驚き、その光源を探しているのだろう。もちろん天井にライトなど付いているはずがない。その源は画中の小さな太陽にあるのだから。

 

 

不在を埋める、不在を補う

ポッドキャスト

京大総長の山極 壽一先生の公演をポッドキャストで聴いた。
師匠が偶然運転中にラジオで聞いて、良い内容だったと教えてくれたのである。となれば外れであろうはずがない。約1時間の講話の中で二つ、印象に残る論点があった。

一つ目は、想像力の話だった。
ゴリラとなって人間界を外界から見ることのできる目を持つ講師は、人間を人間たらしめている大きな特徴として「不在を埋め、不在を補う」ことのできる想像力を挙げていた。人は遠く離れていても、長く会っていなくとも、想像力を働かせてその隔たりを恰もないもののように、なかったもののように振る舞うことができる、というのである。

もう一つはアートとサイエンスについて。
この二つは方法論は異なるものの、モノとヒト、モノとモノ、ヒトとヒトの関係性を見抜く力や創造する力を有しているという点において同質である、という指摘に続いて、サイエンスは両者の関係性の中にある普遍の真理を証明するという手法によって、アートは両者の関係性を作家の表現により提示しそれに対する共感の広がりをもって、それぞれ定義の定着を図るものであり、その両者のバランスの上に「常識」というものが成り立ち、生活を豊かにしているという考えが示された。

山極 壽一|FM FESTIVAL 2015

 

想像力の揺らぎ

不在を埋め補うことと、アートとサイエンス。似てはいないだろうか。
一見離れた位置関係にある人やものとの時空の隔たりの間に、想像力を駆使してなにかしらの関係性を感じ取り、作り出し、確信して、言葉や数式や行為や態度に置き換え、四苦八苦しながら表現する。

考えてみれば、日常の中で私たちはこうしたことを繰り返している。
新しい文具が一つ増えただけでデスクの上の配置を考え直し、すでにこの世から去ってしまった人の写真に語り掛け、メールの文面の行間からあるはずもない書き手の感情を過剰に忖度したりしている。思い返すと赤面してしまうような自意識過剰や取り越し苦労、勝手な思い込みに自己満足。極端に言えば、その行為の繰り返しが生活であり、その一見無価値な想像力の揺らぎの中に私たちは生きている。

サイエンスやアートを生み出す想像力が、そうした日々の揺らぎと同じ平面上にあるとしたら、そうと実感することができたなら、その時の気分はいったいどんなものなのだろうか。
人間だけに許された想像力を働かせて、そんな自分の姿を思い浮かべてみる。

 

 

途方に暮れる

原美術館

原美術館へ出かけてみた。初めての訪問である。

最寄りの品川駅から少し距離があるので、よほどの覚悟が無い限り足が向くことはない。今回は、と思い定めて交番の前の交差点を渡り、あとはまっすぐ進めばよいはずなのだが、どう見ても美術館があるようには思えない。引き返そうかと思いはじめる頃、白い玄関が現れる。

そこにある、時間―ドイツ銀行コレクションの現代写真|原美術館

 

写真と時間

曹斐(ツァオ フェイ)の2作品(自分の未来は夢にあらず02、04)には、日常を背景にそこに暮らす若者が夢見る姿が映し取られ、のびやかで、触れることが叶いそうな未来に向かう時間に満ちていた。

椅子のほかには特にこれといったもののない劇場の舞台を撮ったカンディダ・へーファーの作品(レックリングハウゼン劇場Ⅰ)の前では、過去と未来において積み重ねられ積み重ねられるであろう舞台上の営みにしばらくの間思いを巡らせることができた。

写真というものは、いまある姿を材料に、いまある印象を残すものなのだと、深く考えることもせずに漠然と思っていた。様々意見はあるが、ことの本質はそうだ、そう思って撮り続けていた。そこに何らかの意味を付加し、様々な印象を引き出すのは、もっぱら鑑賞者の力量によるものなのだ。そういうことにしていた。

だが、間違いなく作品に時間は表現されていた。理屈ではなく、この目で見て、確かに体験し、しっかりと実感してしまったのだ。

さあ、明日からどうすればいいのだろう。

白井 聡 氏 講演録/鳥の演劇祭8

2015/09/22

鳥の劇場・ホワイエ

 

講演を聴いてきたので、その概要を以下に記す。

もちろん文責はわたくし。

 
(はじめに)
・永続敗戦という本を著したが、何故、70年も経っているのにこの課題に付き合わなくてはいけないのかと思う
・戦後の復興、経済成長によってそのことを上手に誤魔化しながら生きてきた70年間であったが、約20年くらい前からこのトレンドは失われ、国の在り方に方向性を欠いたまま今に至っている
・そして、現政権には、そうした「誤魔化し」の進化、純化、定着を進めようとする病的な傾向がある
(著述の動機)
・直接の動機は「3.11」
・海水の注入を思いとどまらせようとする東電本社エリートの発言に代表されるように、この国は「壊れている」という事実が原発事故によって露呈した
・これでは丸山眞男の指摘した「無責任の体系」と同じ、日本のすべてがそうなっている、実はスカスカだったんだ、という驚きに包まれた
・無責任の体系とは、システムを生み出した本来の目的を見失い、システム自身の自己保全にすべての資源を注ぐという外見的な行動パターンを示すもので、15年戦争末期の国体護持の優越、公的認定の国家独占など、独善的で民主主義のかけらもない思考様式
・「3.11」でこの国を覆う「無責任の体系」がもたらす行動様式が露わになり、国家意志を優先しようとする勢力の地金が現れたが、「それがどうした」と開き直る一派が登場し、現政権の支持母体となっている
(先行して芽生えていた問題意識)
・加えてその背景には、鳩山首相退陣に至るプロセスにおいて露わとなった、米国との合意が国民の民意に優先してしまう、すなわち米国に「敗けている」という事実認識があった
・更に、その「敗けている」という事実を覆い隠すかのように、問題の核心に迫ることなく鳩山の個人的資質を攻撃し、論点をそらし、矮小化させるようなメディアの論調
・これは「敗戦⇒終戦」の読み替えによって敗戦をごまかした、70年前と同じパターンではないかという既視感に包まれた
(戦後体制の中心軸)
・「敗戦の否認」。敗戦を現実として認めず、曖昧のままにおき、すべての責任を不問にした米国による旧支配層の活用のためのプロパガンダで、敗戦を契機とした日本人自身に手による自らの国の自己変革の機会を抹殺した
・「敗戦」を否認し続けるため、米国に延々と負け続ける(=永続敗戦)という現象が出来することになる
(対米従属)
・本来、たとえ従属関係であっても、国家間の関係である限りそればビジネスライク、五分五分、ギブアンドテイクの関係であるはずだが、日米関係はそうしたものではなく、環境、条件、前提が変わってもその状況に変化はないという特殊なもの
・そればかりではなく、「米国は日本を愛しているはず」という「温情主義の妄想」に基づいて、ただ一途に従属している
・免責を受けた旧支配層の恩返しに始まって、政財界、マスコミを問わず、いまやそのこと自体が目的化しているが、さすがに精神的な負担感はあるようで、この一方的な従属によって生じるストレスは、アジア諸国を発散の場として位置づけることになる
(従属強化のスパイラル)
・アジア諸国に対する優越的な姿勢を示し続けることは、米国に盲従することによって獲得する米国との強い紐帯を背景として初めて可能となるものである
・こうした傾向は、アジア、特に東アジアにおける日本の孤立を生み、そのことが一層対米従属を促進させることとなる
(永続敗戦を可能とした前提条件の変化)
・こうした「永続敗戦」は、①冷戦構造という国際環境、②東アジアにおける経済的な突出、の2点を前提条件として成立していた
・冷戦構造は、米国にとって東アジアにおける日本の地勢的な重要性を高め、東アジアにおける経済的な優越は東アジア諸国に対するストレスの発散を容易にしたからである
・しかしこの2点は、1990年頃に消滅し、冷戦の終結による米国から見た日本の重要性の低下、経済的な成長を背景とした中韓からの反発という新たな環境がもたらされることとなった
(失われた30年)
・以来約30年日本は国是を失い、あたかも柱のない家のような状況におかれているといってよく、経済的のみならず、政治的にも「失われた30年」であったと評価できる
・現政権は、ひたすら「永続敗戦」を求め、冷戦構造と経済的優位という失われた前提条件の代わりとして、精神的な対米従属の純化をその位置に置こうとしている
中韓へ真摯に向き合おうとしない口先ばかりの平和主義と、歴史認識を修正し憲法を改正し戦争のできる国への志向
・これらは対米従属のスパイラルを一層純化させることになる。
(現政権と彼らを支持する層とは)
・自らが置かれた困難な状況を「所与」のものとして正面から受け止めきれずに“キレて”しまった人たちのマインドセットに他ならない
・困難な状況に対応することができずに無能を立証されたにもかかわらず、いまの権力にしがみ付こうとしている人たちが居直って、開き直っている勢力
・また、彼らを支持する社会的勢力も、現代社会の諸困難に正面から向き合わず、それらをなかったことに、見えなかったことにして正面から取り組まず、責任も引き受けず自己保身や現状維持に走ろうとする人たちから構成されている
(なすべきこと)
・現在の非常に悪い状況を正しく知り、正しく絶望し、そこから第一歩を記すこと
・手を付けずに目を背けて置き去りにしてきたことを、一つずつ手掛け、取り組んでゆくしかない

質疑応答
Q:対米従属からの脱却は可能なのか
A:対米従属は、現実的な問題としては「仕方のない」ことだと認識。ただし、現在のような特殊な対米従属の関係からの脱却は可能。天皇の上に、政府の上にワシントンがあるといった対米盲従、米国は日本を愛しているという「温情主義の妄想」から脱却し、ビジネスライクな従属関係に立ち戻るべき。それこそが「普通の国」のはず。