思い詰めてしまった訳

写真展へ

少し前のことになるが、ある写真展に出かけた。

作家の名前は「鈴木理策」、はじめて聞く名だった。そもそも、写真家に詳しいわけではない。作品と作家の名前が一致するのは、植田正治杉本博司石川直樹川内倫子ホンマタカシ、それくらいである。

是非見てみたい、と思い詰めたのは、写真展を紹介するウェブページに掲載された海を写した作品に惹かれたからだった。青空を背景にただ寄せてくる波を写しただけの写真である。

鈴木理策写真展 意識の流れ|東京オペラシティアートギャラリー

 

作品が与えてくれたもの

ありのまま、見たまま、とよく言うが、そのこと自体の表現に正面から取り組んだかのような作品群。無意識に行なわれている「見る」という行為を、写真家の手によって「こういうことなんだ」と改めて定義し、作品として示しているかのようだった。

作品に人間としての行為が写し取られていることによって、私自身の「見る」という行いがどんどん写真に引き寄せられてゆく。そこに表現された「見る」という行為を媒介にして、私は「作品」としてではなく、作品に映し取られたその「光景」を眺めていた。

言葉にできるかどうか、誰にでも通じるのかどうか定かではないが、どんな風景、光景であっても、それが人を惹きつけるときには、どこかにそれなりの理由がある。そのことを、こんなに静かな作品群によって、少なくとも私には十分に示してくれた。理由はわからないけれど、写真に収めずにはいられない光景にしばしば出会ってしまう私を安堵させてくれたのである。

どうしても見たいと思い詰めてしまったのは、こういう訳だったのだ。

 

 

 

じっと見る、どこまでも見る

 自然は無限

山に登った。山に登り、自然の中を歩く理由はいくつかあるが、そのうちの一つに「びっくり」との出会い、がある。

まったく知識がない段階では、山の中は「草」と「木」が生えているとしか見えない。たまに鳥らしき鳴き声がするが姿は見えるはずもない、そんなものである。そんな中に放り込まれても、時間をただ持て余すだけに決まっている。

しかし、ひとたびひとかけらの知識を得て、そのわずかな手がかりをもとに自然に目を向ければ、自然の凄まじいまでの奥深さに気が付き始める。いや、奥が深いどころではない、無限なのである。

知れば知るほど謎が生まれる。我々の知識に応じた謎を自然は示してくれる。その答えを手にして再び自然に目を向けると、今度はその成長に応じただけの新たな謎が与えられる。我々の知識の蓄積が進むに従って、対象を観察する力の「解像度」が高まってゆくのだが、自然はこちらが解像度をどこまで高めたとしても、終点に行き当たることが無い。限りがないのだ。

 

本気で見る

これは「カワラナデシコ」のつぼみ。あの華奢な花がこのように折りたたまれてつぼみに格納されているのだ、と驚く。が、たちまち、どのようなギミックでもって花 の形に整ってゆくのだろう、あるいは、現状30%の展開に至るまでには、どのような動きが、手順が整えられていたのだろう、そう思わずにはいられなくなる。知りたいことはいくらでも増えてゆく。

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底のない自然の奥深さ、無限の解像度に向き合うには、じっと見るしかない。本気でどこまでも見るしかない。日頃ぼんやりと生きていて、なかなか本気になる機会はない。だから自然は良いのだ。