不在を埋める、不在を補う

ポッドキャスト

京大総長の山極 壽一先生の公演をポッドキャストで聴いた。
師匠が偶然運転中にラジオで聞いて、良い内容だったと教えてくれたのである。となれば外れであろうはずがない。約1時間の講話の中で二つ、印象に残る論点があった。

一つ目は、想像力の話だった。
ゴリラとなって人間界を外界から見ることのできる目を持つ講師は、人間を人間たらしめている大きな特徴として「不在を埋め、不在を補う」ことのできる想像力を挙げていた。人は遠く離れていても、長く会っていなくとも、想像力を働かせてその隔たりを恰もないもののように、なかったもののように振る舞うことができる、というのである。

もう一つはアートとサイエンスについて。
この二つは方法論は異なるものの、モノとヒト、モノとモノ、ヒトとヒトの関係性を見抜く力や創造する力を有しているという点において同質である、という指摘に続いて、サイエンスは両者の関係性の中にある普遍の真理を証明するという手法によって、アートは両者の関係性を作家の表現により提示しそれに対する共感の広がりをもって、それぞれ定義の定着を図るものであり、その両者のバランスの上に「常識」というものが成り立ち、生活を豊かにしているという考えが示された。

山極 壽一|FM FESTIVAL 2015

 

想像力の揺らぎ

不在を埋め補うことと、アートとサイエンス。似てはいないだろうか。
一見離れた位置関係にある人やものとの時空の隔たりの間に、想像力を駆使してなにかしらの関係性を感じ取り、作り出し、確信して、言葉や数式や行為や態度に置き換え、四苦八苦しながら表現する。

考えてみれば、日常の中で私たちはこうしたことを繰り返している。
新しい文具が一つ増えただけでデスクの上の配置を考え直し、すでにこの世から去ってしまった人の写真に語り掛け、メールの文面の行間からあるはずもない書き手の感情を過剰に忖度したりしている。思い返すと赤面してしまうような自意識過剰や取り越し苦労、勝手な思い込みに自己満足。極端に言えば、その行為の繰り返しが生活であり、その一見無価値な想像力の揺らぎの中に私たちは生きている。

サイエンスやアートを生み出す想像力が、そうした日々の揺らぎと同じ平面上にあるとしたら、そうと実感することができたなら、その時の気分はいったいどんなものなのだろうか。
人間だけに許された想像力を働かせて、そんな自分の姿を思い浮かべてみる。